三日目。

ふと、懐かしい気がした。
雨の音を聞き、デュエル雑誌のページをめくりながらシャークは急に思い出す。
この雑誌を買った日。あの日、ほぼ二秒しか見なかったけど、確かに一瞬だけ彼は遊馬の顔を見た。
無表情でただ自分を見つめる顔だった。
彼が聞かされた遊馬はいつも元気すぎる人だ。授業は寝るくせにテストや試験の時はきちんと起きてかっとビングを叫んだり、体育の時はチャレンジと言い出してかっと ビングだ!と無茶なことをしたり、メシを食べる時も速さのかっとビングをしたり…ほとんどかっとビングか。とりあえず、手下から聞かれたのはこういうことばかり だ。
(かっとビングオタクというべきか)
彼の目はいつもキラキラと輝いていた。例え負けても傷だらけになっても、彼は必ず前のことをまっすぐと見つめる。何度も負けを繰り返せば諦める人がほとんどだが、 遊馬は少し違う。
彼は見えている。
自分がたどり着きたい山の果て。遠くても山は彼の目の前にあって、諦めずに頑張れば少しずつ、果てに着くことができる。
遊馬はそう信じてきたに違いない。
(だからこそ、あの目をするかもしれない)
目標が高い場所にあるほど、落ちる衝撃は強い。シャーク…『凌牙』だってそうだった。
全国大会で勝利を得るため、彼はしてはいけないことをした。決勝相手が休憩室にいないとき、植物越しで乱れ散るデッキを覗いた。
通常、大会で出る選手達はお互いのデッキを確認してはいけない。イカサマを防ぐため、会場には監視カメラに包まれ、選手達の行動を見ていた。
『凌牙』もそうだ。相手のデッキを覗いてしまったため、勝負がつく前のターンで中止され、彼は。
山の果てにたどり着く一歩の前、自らの手で山から落ちた。
彼は上に向かう道でさえ失ってしまったのだ。
ずっと行きたかった山の果て。負けて、傷つけて、一歩ずつ進んできた自分の道が崩れ、岩が地面に落ち、頭を上げると、
山でさえ消えてしまった。
おかしな話だ。自らやってしまったことなのに、今更自分がどれほど愚かな人間か分かってしまう。失った瞬間に、今まで持っていたモノがどれほど大事なのか、……
『凌牙』は後悔さえできなくなった。
(…………ん?)
何かを気付いたか、雑誌をめくる指先を止め、シャークは少しだけ目を見開く。
同じ目。少し前の自分と同じように、上へ向かう道でさえ失った視線。
まさか。
「アイツ、イカサマで負けたというのか」


雨とは不思議なモノだと、突然思う。
朝はいい天気なのに、振り返ると空は急に泣き出してくる。雲が篭って雨が降ったと思えば、太陽が出てきた。
まるで人間の気持ちのようだ。
「小鳥っ」
「鉄男くん、おはよう」
「やっぱり、来てねぇのか」
「…うん」
ガラス壁から振り返り、小鳥は隣の席を覗いてみる。
今まで元気そうに使われ、寝られる場所だったそこは今、空っぽのままだ。
小鳥は目を細めた。
「遊馬、どうしたのかしら」
「アイツが学校に来ないなんて小学校以来だっけ。あのとき、オレは違うクラスだったけど」
「…うん」

三人は小学校からの知り合いだった。
遊馬と小鳥は幼馴染で、鉄男とは小学校からの知り合いだった。小学校までの遊馬は今と少し違い、学校が嫌いな子だった。
学校に行かず、無理やり引っ張ってようやく学校に着かせたと思えば遊馬はまた姿を消し、どこかに隠れる。
時々大人しく教室にいるけど、その日の終わりに必ず独りで帰ることになる。
学校に来る日、遊馬は必ずデュエルに申し込まれ、暗い顔で家に帰る。
それもそうだ。彼はほかの子達にデュエルでいじめられたからだ。
強いデュエリストより、いつも初心者で、勝ちなど一度もない遊馬とデュエルする方が、征服感が簡単に満たされるに決まっている。
でも、あの日。彼は変わった。
両親が再び冒険にいく前、遊馬に金色のペンダントを上げた。名前は皇の鍵というらしい。まるでタワーを思わせるその形に、遊馬はすごく気に入っていた。
あれから彼の行動もすっかり変わったのだ。
毎日も学校に行き、眠りながらも授業が終わるまで残り、放課後はDパッドやDゲイザーを取り出して「かっとビングだ!オレ!」と叫んでデュエルする相手をさがして いた。
結果的にほとんど毎日も負けだけど、不思議なことに、遊馬は諦めず、今も笑顔で挑戦つづけていたのだ。
…そのはずなのに。
「遊馬…っ」
(あの日、雨の中に何があったの?)
雨。
あの日に何が起きたか、彼女にはわからない。雨が降ってきて、信号を渡ろうとしたら車に迫られ、はねられる直前のところで遊馬が彼女を助けてくれた。それだけのは ずだ。
そのはずなのに、小鳥が気付いた時にはすべてが変わってしまっていた。
水に濡れられても構わず、遊馬はただずっとある方向を見つめていた。悲しそうな、つらそうな眸ではなく、心が奪われたような表情で彼は地面に膝をつけて叫んだ。
雨の音色の中で長い、ながい悲鳴の叫びを。



『ポッ』と雑誌を閉じてシャークは部屋の時計を見る。
そろそろエサを与える時間と思い、少年は部屋を出る。朝食は昨日の残りにしようと考えると、ソファに眠るヤツのことを思い出す。
(当然寝ているに決まっている)
エサを水槽に入れて、チラッと後ろに覗くのだが…少し違う景色が海蒼の瞳に入る。
確かに例の少年は眠っている。眠っているけど、何かが違う。
何かに苦しめられたように強く布団を握り、何かを掴めたいように空に腕を上げ、
小さな呟きがシャークの耳に届いていく。
「……―――――でゅ、…る……、とうちゃ……っ」
(…親とのデュエルの夢か)
シャークには親を求める気持ちがあまりわからない。
両親がいないわけでもないが、遊馬のような楽しい家族ではない。今となって自分もひとりの方が楽だし、相手のような家族と嬉しそうに暮らす生活はもう望めない。… 憧れていない、と言えばうそになるのだけど。
そういえば前、壊したペンダントも、親のカタミって聞いていたような…と考えてシャークは冷蔵庫のドアを開く動きを止める。
(…親とデュエルする夢で、こんな苦しそうな顔をするのか)
仲悪い家族ならともかく、仲良い家族とのデュエルなら嬉しくて楽しいモノになるはずだ。
再びソファの方向を覗き、少し顔の上にひかる滴と赤い頬を見て、
(まさか)
シャークは腕を伸ばした。
「遊馬!」
急いでソファに走り、シャークは遊馬の布団を握る手を掴む。思ったより体温は高く、魘される表情も酷く歪んでいる。
やはり、彼が考えた通りだ。
「遊馬!聞こえるか、遊馬っ!」
とりあえず何度も相手の頬を叩いてみる。少し力を入れすぎたか、顔は赤くなっていき痛みの色が染みると少年はまゆ毛を歪み、
ゆっくりと目を開いた。
「…シャ、っゴホっゴホン!」
「このせき…お前、やはり風邪をひいたのか!」
「ちがっケホッ」
「もういい」
キッチンからコップを探す。青色の絵のマグカップに一瞬迷ったが取り上げ、水を入れて遊馬に渡す。彼が慌てて水を飲み始めると、シャークはため息をつき、一旦部屋 に戻る。
マグカップに描かれた可愛らしき魚の絵に遊馬は口元を緩め、水が飲み終わったところにシャークが帰ってくる。彼は手にいるモノを遊馬に投げた。
「着ろ」
洗濯した遊馬の服だ。
「すぐに着替えろ。元だが、今から知り合いのドクターに連れてやる」
「!ま…待てよ!オレはまぁ、っケホッゴホォ……っ」
「…いつものうるさい声も出せないくせに、まだ強がるのか」
遊馬が出たくない気持ちは分からなくもない。だが、風邪をひいてしまい、命がかかっている以上、シャークは遊馬に無茶をしてほしくない。
そう思ったのだが、予想外の応えが帰ってきた。
「ぃやだ…っ」
咳が止まらない。喉の奥が渇き、水を求め、体も熱くて寒くて仕方ないのに、遊馬は頭を左右に振った。
「雨がまだ、やんでない」
「…貴様っ!」
服を掴み、相手が苦しんでいるにも構わず、遊馬を持ちあげるとシャークは彼を睨んだ。
「雨がそんなに怖いか!家にも帰りたくない、オレんちに籠もるくらい怖いのか!外に出たら、」

―――――死ぬとでも思っているのかテメェは!

………死。
死。命を失う意味。
世界から消滅する意味。
消える、意味。
「…………ぃ…」
(いや、だ)
少しずつ。
(いのち、が)
すこしずつ。
(たましい、が、奪われたら)
はじめに揺れ、やがて眼を見開くと全身は拒むように震え始め、紫の少年の腕を掴み、
「!」
「っうばわれ、たら…!」
少年は叫んだ。

――――――父ちゃんと母ちゃんにさえ会えなくなるんだよ…!

…瞬間であった。
思わぬ強い衝撃が腹部に打ち込まれた。
はじめはショックで、次に我に返ったように痛みは水のように広がり、全身に流れ、少年の意識は落とされた。
「悪く思うなよ」
遊馬の腹部に撃った拳を収め、寒がらないようにジャケットを着せる。フロアに落ちたマグカップをリビングテーブルの上に置き、彼を背中に寄せ、シャークは少年を背 負う。
ドアを開けて傘を開くと、雨の声が届いてきた。
「…まだマシなほうか」
(……あの日も雨だった)
デュエルから追放されたあの日。
手に残るたくさんの後悔感に操られ、少年はだらだらと街に歩き、水に濡れられながら歩き続ける。
どれくらい歩いたか、足が疲れて跪き、地面の水跡を通して自分の顔を見つめ、顔を上げる。
あのときだけ、降っている雨は彼の代わりに泣いてくれたかに感じた。
「バカは風邪を引かないなんて、嘘なんだな」
チラリと背中の遊馬を覗きながらクスと苦笑し、シャークは一歩を進み、
「お前は、とんだ大バカだ」
両足は雨の中に歩きはじめる。
懐かしいよう、静かで穏やかな雨の旋律は再び耳に響き始めた。


続きはオフ本『雨のガラス箱庭I――眠る二つの魚――』をご覧ください。