魚は、ガラス箱庭に眠る。


いつからこの生活が始まったのかもう思い出せない。
始まりは突然で、断じて始めたいわけじゃなかった。ただ、気がついたらこうなってしまっていただけだ。
彼にもわからない。
なぜ彼がこの生活に付き合わなければならないのか、なぜ彼も似たような行動をしているかはまったく理解できないし、今更知りたいとも言い難い。
知ったら間違いなく、こんな生活をすぐにでもぶっ壊したくなるからだ。
…だが、今の彼にはできない。
彼がいまの生活を壊すことがなど、できるはずがない。
最初から壊すつもりなら、彼は。
『凌牙』…シャークはこの生活を始めようとはしなかった。


ボタボタと水の音が耳に届いてくる。
風呂からあがり、タオルで濡れた髪を拭き、ドライヤーで髪を定着させようと思ったが、濡れながら水を跳ねる髪を撫ででやめることにした。
元々髪糸が硬いせいか、長い時間水に濡れても自然といつもの形に維持することができる。
もういいかと髪を離し、海蒼色の瞳は窓の外を覗く。雨は止まずに降っている。
そしてゆっくりと視線を振り、紫の少年はソファに近付き、
布団を強く掴めながら眠る紺色の少年を睨み始めた。
「………チッ」
目の前の景色を見ながら思わず舌打ちする。少し考えるとシャークは腕を上げ、
「オイ」
パチッと相手の頬を軽く打った。
「いつまで寝るつもりだ」
……反応がない。
「オイ!つく…遊馬っ!」
「……………………ぅん…なんだよぉ…」
ようやく彼の声(というより舌打ちか)に気づいたようだが、紺色の少年は相変わらず目を閉じたまま、ただ小さく唸る。
その反応にシャークはイラっとしてきた。
「さっさと起きやがれ!」
「んぅ…やだぁーねるー」
「どこのガキだテメェは!」
「オレはー…ガキだぁ、し………」
溺れた者が救いの糸を掴むように、引っ張っても布団を離さず、遊馬は眠りについていく。
「あめが…」
ヒクと紫の髪が跳ねる。
「雨がやんだら、起きて、…でゅえ、るを ぅ…………」
再び夢に入り込み、寝息が聞こえるとシャークは口を開き、閉じ、布団を掴む手を離す。
少年は窓の外に顔を上げた。
(人んちに邪魔しやがって)
「雨がやまないなら一生、オレんちに籠もるつもりかよ。馬鹿が」

止まることがない天空の涙。
そこにはふたりの少年が籠もっていた。
雨が降り続き、増やしていながら水から逃げずにいる。
ガラス箱庭の世界に。



雨のガラス箱庭I
――眠る二つの魚――




 二日目。

性格と違い、シャークの寝起きは悪いのだが、起きる時間は非常に早い。
ベッドに降り、少しかっとビング…ではなく、ぐちゃぐちゃになった髪を整理し、顔を洗って朝の準備をしようと思ったが…途中でシャークの動きが止まる。
そして頭を鏡に打ちつけた。
(そうだ…あいつがいるんだ…)
痛みを気にせず、音を出さないよう静かにリビングへ行く。ソファの方を見てみると、確かにそこにはあるモノがいた。
昨日から彼の家に邪魔するモノ―――――九十九 遊馬がいたのだ。
「…起きろ!!!」
「うわぁー!!」
まさに『パーン』という衝撃音だった。
びっくりしすぎでソファから飛んでフロアに落ちてしまう。あまりに大きな音のため遊馬は頭を撫でて目を開くと、なぜかフライパンを持っているシャークが視線に映っ た。
「いてて……ぁ。…おっはよー!シャーク!」
「さっさと起きろ!」
「でもだりぃしー…雨が降っているしー…」
小さく、でも静かに届いてくる雨の音。
シャークは怒りたくなった。
「テメェ…今日学校あんだろ!さっさとい、………っ」
一瞬だけ見せる、傷つけられた紅赤の瞳。
あぁ、彼はこれが苦手なんだ。この瞳でなければ、彼はこんな面倒なことに巻き込まれずに済むのだ。さっさと目を閉じろ。よし、早く目を……
…………………
「っねるなぁ――――!!!」
…神代 凌牙。あだ名・シャーク。
見事に三回目の負けである。

「ちくしょう…覚えてろ。エビ頭」
朝食を準備している間に服を洗濯するシャーク。自分の洗濯物を洗濯機に入れると、ふとある色が少年の目に入る。
遊馬がいつも着てた服とDパッドやDゲイザーだ。
(………)
チラリとソファに眠る姿を覗き、洗濯機を起動させるとシャークは服と共に置かれた白色のDゲイザーを取る。
メモリデータの中に電話帳のある番号を探し、少し迷うがしばらく考えると少年は指先を伸ばし、

―――――通信は静かに切られた。
「春ばあちゃん!!」
「うぅん?」
電話が切られたところで足音が届き、春は顔を上げると、なぜか何かに焦っているような顔をする明里がいた。
春は頭を傾げた。
「どぉしたのだい?明里」
「ばあちゃん、やっぱり警察に連絡しよう!」
「はて、どうしてのかい」
「…おばあちゃん…」
相変わらずニコニコする春に明里は少しだけ頭を抱きたくなった。頭を左右に振り、女性は先ほどの話を続く。
「あの子を心配ないの?学校にも連絡したけど、やはり行ってないの。もう二日目なのよ、あの子が家に帰ってこないなんて…」
いままでなかったのに。

姉である明里は知っている。
遊馬は元気な子であることは分かっているし、学校が好きでデュエル馬鹿で外でデュエルばっかりやってて時間を忘れることもある。
それでも遊馬は必ず晩御飯の前には家に帰ってくる。
たまに落ち込む姿があるけれど、彼は晩御飯の時間に戻り、真っ先と「ただいまー!」と言い、再び出かけるか部屋に籠もる。
思うと、この癖は親がいなくなってからのことだった。
昔の遊馬は今のように学校に行くのが好きじゃなかった。親…特に父と出かけるのがすごく大好きなのに、学校は嫌いと家に籠もる彼は言っていた。つまらないと、両親 の話のほうが面白いと。
父と母は冒険家のため、家にいる時間は長くないのだが、二人が帰ってくるときは決まってたくさんの話をしてくれた。旅行先のことだったり、民族のことだったり、出 会ったことだったり…彼女と遊馬もそういうときが好きだった。
親といる時間が、大好きだった。

「…やっぱり、あたしは警察に連絡してくる」
「明里」
耳のDゲイザーに連絡しようとする明里を止め、スゥー…と茶を一口飲み、春は頭を振る。
「明里は、男と付き合ったことがあるかい」
「なに?いきなり」
「男はなぁ」
広がっていく波。
どんな小さな衝撃を与えられても液体は揺れ、動き、波紋を広がっていく割に、必ず元の姿に戻ってくる。
何があろうと。
「自分で解決しなければならないこと、あるのじゃよ」
陶製の和風カップに広がる波を見つめ、春はニコリと笑う。
「今は、遊馬を信じましょう」
「……おばあちゃん」
だが明里は不満そうに笑うと、
「遊馬か誰かからの連絡を受けたでしょう」
「……………おほっほっほっほっ。はて、なんのことじゃね」
見事に苦笑う春の姿があった。


(…………似ている)
水槽の魚にエサを与え、朝食のパンを食べながら突然、シャークは思う。
小さなガラスの水槽の中に生きる金魚。そこに自由はないが、出たら死んでしまうため、魚は水槽から出られない。
この箱庭から出られず、永遠に。
(似ているかもな、アイツと)
まったく同じとは言えないけど、少しだけ似ていると彼は思う。
水槽から出ると死んでしまう魚と部屋から出ようとしない紺色の少年。彼は外に出たら死んでしまうほど弱くはない。だが、今の彼はただ水槽の中にいることで、心が満 たされている。
……いいや。状況が似てるだけか。
「…オイ」
エサを食べる金魚を見て、シャークは小さくつぶやく。
(魚も、出たいのかもしれない)
「お前は、ここから出たいのか」
波紋は小さく広がっていく。
【遊馬】
いつから現われたか、遊馬に取りつくアストラルは空中に浮きながら少年を覗き、枕から遊馬はチラリと彼を覗いてみる。
眉毛は歪んでいた。
「なんだよ」
【君はいつまでこうしてつもりだ?】
「お前だって、落ち込んでんじゃん!…いいだろべつにっ。オレだって、落ち込む時があるんだ」
【……そうか。君のような人間でも、落ち込むのか】
「もういい。…雨がやんだら、すべてが元通りだ。雨がやむまで独りにしてくれ」
【…わかった】
「オイ」
タイミングがよく、アストラルがペンダントである皇の鍵に入ると後ろから声が届き、遊馬は動かずにシャークを見た。
「ちゃんとメシを食え」
(そうだ。すべては元通りになる)
「あとでな、サンキュ」
「オイ!」
「もうちょっとねるー…」
ボタボタと届いてくる雨の音。水の声。
波紋は小さく広がっていく。
布団を被ると少年は窓を見つめ、降り続く雫の花を見ながら彼はゆっくりを目を閉じ、
波に落ちていく。
(雨が止んだら、きっと)
(なにもかも)

あの日のように。